マイルズ・デイヴィスが「ハートがこもってなきゃダメだ」と言い放った件である。ちょっと演歌くさいけど日本にも「歌ごころ」という言葉がある。悪くないだろう。
管楽器や弦楽器、ヴォーカルについては「歌ごころあふれる」「魂のこもった」と言われても「あのテナーには歌ごころが足らんね」とかあまり言われないんじゃないかな。歌ごころ云々言われやすいのは、ピアノだと思う。
何せ鍵盤叩いたら音がでっぱなしである。サスティンペダルで伸ばすか切るしかない。ビブラートなどあり得ない。電子ピアノやシンセも根本的な解決になってないと思う。息や口の形で調整する管や、指で余韻を出せる弦の方が断然音に幅が出るのだ。当然。
ちょっと有名なジャズピアノ弾きでも「歌ごころが感じられないな」と思ってしまう演奏は多い。いや、それだからイカンというわけでもないけどね。例えばビル・エヴァンス。「叙情あふれる」バラード作品も多いがビバップやハードな演奏は時として無機質で「歌ごころ?何それ?」な作品も多い。だからつまらないか、といえばそんなわけではない。テンションを効果的に散りばめた曲や、理知的にセレクトされたスケールを使用したソロからは、いわゆるベタな「歌ごころ」ではなく、ビルの「美への思い」が迫ってくる。しみじみと心に響くのだ。
一方、歌ごころもなく、深い美的感覚も伝わってこないピアニストも多いんだな。これが。過去の偉大なスタイリストを表面的にマネたパターンである。技術だけは申し分ない。「バド・パウェル風」「チック・コリア風」「ビル・エヴァンス風」とかとか。
ピアノって技術のある人がその通り叩けば再現できてしまうからね。フレーズを指に染み込ませて、当該のコード進行で再現すれば「何とか風フレーズ」の出来上がりである。それを組み合わせれば「それっぽい演奏」が出来上がる。レゴ・ブロックを組み合わせたような過去のフレーズ切り貼り演奏も、ぼーっと聴けば、即興と瞬間に賭けた一期一会の演奏と聞き分けるのは難しい。(あるいは前者の方が心地よいかもしれないね。ラウンジジャズとかだったら)
何が言いたいかというと、技術がなくても別にかまわんのじゃないか、ということ。すごい技術を持ってる人が、下手をすればその技術ゆえに(それっぽい演奏をしようとすれば出来てしまう)つまらない演奏をしていることもある。技術よりもハートだよ、ということだ。やっぱマイルス・デイビスの闇夜を切り裂くようなミュート・トランペットはすごいよね。一つの音で世界が変わる。嫉妬や。嫉妬やない。嫉妬や。嫉妬や泣ないって。