クラシックあるある

「ああ、これは分かる」と思った記事があった。

角野隼斗の演奏だけは受け付けない、彼が特別な理由
https://note.com/sigure4444/n/n2e3fe1cd81ef

3行でまとめる。

  1. ショパンコンクールに出たYoutuber角野氏の演奏が生理的に受け付けられないレベルで気に入らない。
  2. 偏見かと思ったがどうもそうじゃない。
  3. よく聴いてみたら、何の洞察もない表面的な演奏だったからだわ。

僕にも経験がある。他でもないキース・ジャレットのバッハを聴いた時だ。

聴き始めたすぐは「軽くていいじゃないか」と思ったその数分後「なんだか気持ち悪いな」となり、さらに数分後「あーダメダメ。耐えられん(再生停止」となった。

何かの間違いか?と思って何度か聴いたけど同じ結果。たどり着いた結論は「表面的な美しさだけ。とても聴き通せない」といういうもの。キースの即興演奏は大好きなんだけどねえ。

noteの評は、キースのバッハにもほぼそのまま当てはまる。僕なりに言い換えてみよう。

クラシックの優れた演奏は常に3段構えである。

  1. 十分なテクニック
  2. 歴史的な解釈が押さえられている
  3. 演奏者のスタイル、情念、解釈

1.のテクニックはプロとしてクリアしているとして、2.の歴史的な解釈をどのくらい押さえているか、これが意外と大きいのだと改めて感じた。

キースは技術的にはもちろん一流(クラシック界レベルでは「そこそこ」?)、ジャズアーティストとしては一流どころか最高クラス。それでも、2.のいわばクラシック解釈の「基本」をすっ飛ばしてしまうと聴くに耐えない結果となってしまう。

逆に2.の「基本」が押さえられていると解釈の器が深くなり説得力が出る。グレン・グールドの演奏が時としてエキセントリックでも「説得力まじパネェ」のはそのせいである。

もちろん、これまでクラシックを真面目に聴いたことのない人がキースのバッハや角野氏のショパンを聴いてたまたまツボって「クラシックっていいじゃん!」と思ったとして不思議ではないし、それがいかんという話にはならない。結構な話である。もっと素晴らしい演奏が山ほどあるよ!

さてさて、しかし。「アカデミックにクラシックをやってこなかった人がクラシックを演奏すると相当イマイチ」説も100%正しいわけではない。ブラッド・メルドーのアルバムが例外である。

正直、(1.)技術的にはキース(あるいはクラシックレベル)からは微妙に劣るような気はする(遠慮がち。(2.)歴史的な解釈も十分に押さえたとも思えない。それにも関わらず面白い演奏なのだ。メルドーがちゃんとバッハの曲を血肉化している。

なぜ成功したのか。その原因はアルバムのコンセプトが良かったからだと考える。つまり、バッハの曲を一つ取り出し、現代風に進化・メルドー風に深化させて、新たな変奏曲を生み出すという構成。よほど原曲を深掘りしないとできない。つまり原曲を深掘りしたからこそ、メルドー解釈のバッハに説得力が出たわけだ。

それにしても、なんでキースはバッハに手を出したんだろうなあ。どうせやるならアレンジしてしまえば良かったのに。流石にそれは冒涜と思ったのか。メルドーのコンセプトでやれば面白い結果になっただろうに、残念である。

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