果たして、アドリブは先生に教えてもらうものなのか?という疑問が昔からあった。
何度か批判している例のたとえ話に戻ってみる。「アドリブは世間話と同じ。できるだけ単語や話のネタ=フレーズを覚え、それを組み合わせて作るものだ」。もっともらしいようだがこれは楽器に習熟した上級者の発想である。中級者未満はこの考え方は捨てるべきだ。
この考え方が便利なのは「アドリブが教えられる」からという理由もあると思う。枯葉のAパートではこういうフレーズが使えるよ。こういうのもある。練習してきて下さいね。(翌週)はい、よく出来ました。では次のセッション演習で使ってみましょう。
これでもアドリブっぽい演奏ができないわけじゃない。でもどうなんですかね。僕は納得いかないな。複数の選択肢から瞬時に意思決定して華麗なフレーズを繰り出すならまだわかる。スリリングなアドリブができるかもしれないね。でもそれはプロの領域である(ストックフレーズを駆使しつつスリリングに演奏できるかどうかは別の才能でもある)。中級者未満がフレーズを一生懸命練習して、せいぜい1個か2個。それをセッションで繰り出して「アドリブ」とは言えないじゃありませんか。
僕の考え方はこうだ。さ、ここに12本のクレヨンがある。背景(コード進行)の上に好きに絵を描いてご覧なさい。12本どれを使ってもいいのだけれど、変なクレヨンを使ってしまうと取り返しがつかない。ドラえもんを描いたっていいけど、それは背景に合ってる?12本のクレヨン、それぞれの味を知るのがスケールの把握。背景はコード進行の味を知ること。まあ難しいことはいいから、とりあえず描いてみるか。これが初心者のジャズだと思う。
音を出す=12本のクレヨンのどれかを使ってみる。これが楽しければアドリブの才能があると言えるんじゃないかな。例えば僕には絵の才能がないことはわかる。鉛筆を持っても創作意欲が湧かない。書いてみてもさほど楽しいとは思えない。でもピアノの前に立ってテキトーに音を出してみると、なかなか楽しいと思える。だから、少なくとも絵よりも音楽の才能があるはず!そう思って頑張るしかないね。