海辺のカフカと音楽

村上春樹は大学生時代から愛読している。今でも新刊が出ればすぐに買う。歳を取ってからフィクションはほぼ読まなくなった。その唯一の例外が村上春樹である。

最近、寝る時に英訳の朗読を聴いている。寝付きは良いのだが眠りが浅く、未明にパッと目が覚めてそのまま入眠できないことが多い。何もしないで朝を迎えるより、朗読をぼーっと聴いていた方が疲れが取れるような気がする。

村上春樹の小説・短編ならほぼ読んでる。英語で聴いてもどこからでもストーリーを追えるから、うとうとしながらでも気楽に聴けるのだ。

村上春樹を英訳で追体験すると興味深い発見がある。

初期の翻訳はアルフレッド・バーンバウム氏の手になる。フィリップ・ガブリエル氏の訳と比べて分かりにくいと感じた。日本語版と付き合わせてみたら、直訳に近い。日本語の流れに忠実に訳したのだろうか。ギクシャクした英語になっている印象だ。ちなみにこれはWikipediaの評価とは異なる。

翻訳を通すことで村上春樹の語り口の「軽さ」が消え、ストーリーがよりあからさまに提示されるようだ。

その結果、村上春樹の村上春樹性がより明らかになるような気がして面白い。具体的には彼の一人称主人公の特殊性(ムラカミ性)が、英訳により強く出る。積極的に世界に関わろうとしない。混乱しながらじっとしているうちに周りが色々構って導いてくれる。いざ主人公が積極的に出るとテキメン、クリティカルな結果を得る等々。これは「一人っ子世界観」と言って良いだろう。

また英語で聴くと「1973年のピンボール」は原書よりも英訳の方がいいんじゃね?と思われた。英訳では村上春樹がおそらく書きながら感じた「いやこうじゃないんだ」という歯痒さが消えて、自身のストーリーが淡々と提示されている。すると原作で埋もれていた透明な空気感が出てくる。「比較的駄作と思ってたけど、そんなに悪くないじゃん」と思えたのである。

さて本題。海辺のカフカに出てくる音楽談義である。

基本的に村上春樹が音楽を語る箇所では強い違和感を感じることが多い。いわゆる名盤ではなくてマイナーなミュージシャンや曲を高く評価する傾向がある。それも「埋もれていた実は才能豊かなミュージシャン」を発掘する『流石の目利き』的な評価じゃなくて、あまり大したことない曲(失礼!)を褒めちぎってたり、謎のファンタジー評を書き始めたりする。まあ、貶すよりいいんだけどね。

この本も音楽に関しては「ん?」という脱線が多い。まあ音楽オタク登場人物のディレッタントな思い入れ語りだな、とスルーするのがよいだろう。

といいつつ違和感があったのが本のタイトルでもある「海辺のカフカ」という架空の曲について。70年代(あたり?)にスマッシュヒットしたという体の(架空の)ポップソングであるが、主人公のカフカくんがその楽譜を眺めて「曲の全てがリフレインの二つのコードにかかっている。本当に不思議なコードで、この曲に特別な深みと意味を与えている。この2つのコードがなければ凡百のポップソングに埋もれていただろう」といった感想を持つ。いやいや、そんなコードあり得ないだろう。Diminishか?3度セブンスか?みたいな。ある特定のコードが際立った時点でそこには違和感しかないはず。コードは全体に組み込まれて味が出るのだ。

などと細かく突っ込むのも野暮な話で、まあカフカくんがそう感じたのだな、と気軽に受け取っておくのが大人の態度である。

音楽について語る場合でも「ファクト」から離れて「好き嫌い・個人的印象ファンタジー」に流されてしまうとツッコミどころだらけの文章になるのがオチである。かつては「その道の専門家、大先生」だった昔のヒョーロンカセンセイたちの言説が今を生き延びていないのも当然だ。僕に言わせればジャズの評論家などそもそも無理がある。裾野が広すぎる。スタイルも多岐に渡る。そして駄作は多い。ミュージシャンたちとの付き合いも出てくるだろう。まともに評論できるはずがない。ヒョーロンカという肩書きを回避したジャズ・ジャーナリストの小川隆夫氏は実にクレバーである。

音楽について語るのは「匂い」について語るのと同じく難しい。プルーストのマドレーヌの例を出すまでもなく、匂いとは個人的な記憶と強く、強く結びつく。昔のアニソンやCMソングをいつまでも覚えているのも匂いとの類似性を感じさせる。そんな匂いについて語ったところで第三者には「ああ、そうですか」である。音楽について「ファクト」を離れて印象に踊らされて語ることも同じくらい危険だと思っておいた方が良い。

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