アドリブの練習を通していろいろ考え、改めてジャズを聴き直してたどり着いたのは、
プロといえども"アドリブ"のうち相当な割合は仕込みか手癖であろう。 特にピアノ。
という結論であった。もちろん「いやいやお前が下手過ぎるためにアドリブがあまりにも不可能事であると感じて、トンチンカンなことを考えたのではないか」という自問は経ており、それでもなお、プロでも仕込みか手癖なアドリブは多いよな。という強い心証を持っている。その間接証拠が何度か書いているキース・ジャレット、トリオの演奏である。この人ならいくらでも流暢に美しいフレーズが出せるはずなのに、訥々とトリオで演奏するその様子に、あえて仕込みと手癖を排除してアドリブに取り組んでいるのだ、と確信させられる。キースですらガチのアドリブを志向すればああなる。他のピアニストは言わずもがな、ということだ。
では、ジャズ・ピアニストが流暢にジャストタイムでフレーズを速弾きしてたらそれは仕込みか手癖であると判断して良いか。いやいや、これが必ずしも真ではないのがジャズの懐の深さである。
例えば山下洋輔。
これは極端か。
むしろこっち。
リズムジャストのピアノ超速弾きソロだけど、仕込みでも手癖でもない。これはなんだ?
以前、NHKで山下洋輔と養老孟司の対談をテレビで放送した。その時の山下の話が手がかりになる。彼にとっては音楽は「言語」に近いものなのだそうだ。言葉がそのままメロディになる、山下はそう語った。
普通の人にとっては音楽と言語は別物である。音楽で意思疎通はできない。結婚して40年。「なあ」「うるさい」だけで59通りの会話ができるとなれば近いかもしれない。通常の脳の働きではメロディと言葉は結びつかない。山下洋輔は言葉とそれに伴うプラスアルファがメロディになるわけだ。シンジラレナイ。とはいえ彼の演奏を聴けばテキトーなことを言っているわけではないと感じるだろう。どちらかといえば赤ちゃんの喃語(なんご)に近いという(勝手な)イメージがある。
つまり「しゃべるようにアドリブする」人たちがいて、そういう人たちはジャストタイムで超速いソロを出せる。コルトレーン、エリック・ドルフィー、ベニー・ウォレスってフリージャズやサックス系の人が多いね。
フリージャズなスタイルは表舞台には出てこなくなったが、それとは別に言語と音楽が近いジャズがあると僕は思う。例えばブラッド・メルドー。彼のソロはメロディというよりと何かをしゃべっている感がある。スキャットを乗せやすい。
面白いのが「歌心」という概念である。キースのソロがハマると涙が出るほど美しくメロディアスである。歌心あふれる、というやつだ。山下洋輔やブラッド・メルドーの「おしゃべり」ソロからもハートを感じることはできる。スタイルが違うのに歌心があるのは不思議じゃありませんか。
一方で「確かに流暢なソロでジャストタイムだけどさ、なんの歌心もねーな、おい」というジャズも少なからずある。自分でアドリブにチャレンジしていると、じわじわと色々見えてくるのである。