批評の幸福な時代 その2 〜 あるいはクラシック界の「マナー講師」

ネットの口コミもYoutubeもない昔は、レコード(CD)評が確かに必要だった。(レコードの試聴ができる店もあったのかな?)

当時の中高生にとってレコード(CD)は安いものではなく、スイングジャーナルを立ち読みしたり(あれも安くなかった)図書館やラジオで情報を仕入れて「ええい!ままよ!」と気合を入れて買ったものである。

主な情報源が印刷物だった。そんな時代があったのだ。

グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」。1956年版か1981年版か迷ったことを覚えている。確か高校生だった。本来は(?)二枚買って前者から順に聴き比べるのが正しいのだ、と思いながら、予算の関係、そして新しい方が音が良いだろう、という期待で新しい方のみを購入した。

流石の名盤である。時折ブランクを置きつつ今でも愛聴している。30年以上繰り返し聴いてるアルバムは唯一これだけである。

吉田秀和によると1956年版の発表はクラシックの世界に衝撃与えたとのことだ。バッハの鍵盤曲はチェンバロかクラビコードで弾くものだ!という先入見を木っ端微塵にしたのだ。

その後1981年版を聴いた吉田は「1956年版の衝撃があまりにも強かったため、新しい方を聴くとがっかりするのではないかと不安だったが、少なくとも失望はしなかったので良かった」くらいの感想だったようだ。興味深い話である。

僕がクラシックを聴き始めた時代はすでにピアノでバッハを弾くのは当たり前だった。後で1956年版を聴いてみたら、1981年の方が断然良いと思えた。その違いを詳細に書く力量も時間もない。簡単に言えば1981年版の方が深みを感じられる、といったところだ。

時代と聞く順序によってアルバムの評価は大きく異なる。リアルタイムで聴いた吉田が「1956年版に衝撃を受けた」のは事実であるが、僕は1981年版が好きだ。これはもう巡り合わせであって「吉田氏が正しく、お前は間違っている」と言われても困る。音楽には「正論」やら「あるべき論」などないと僕は信じる。

そしてマナー講師

昔はバッハをピアノで演奏するなんてもってのほか、という風潮があったようだ。ある意味では分かりやすい。バッハは現代的なピアノを想定して作曲したわけじゃない、故にピアノじゃなくて当時の楽器で弾くべき。ぐぬぬ。それを強く主張した一人がワンダ・ランドフスカという人だった。一応チェンバロ演奏技法で名を成したことがあるようだが僕は不勉強にして知らない。吉田は「神主が榊をシャンシャン振りながら静々と歩くような大袈裟な演奏でテクニックも足りない」とさりげなく上品にこき下ろしている。上手いものだ。

今となってはほとんど馬鹿馬鹿しい主張なのに、当時は真面目に受け止められたようで、実際ピアノでバッハを弾く人はいなかったそうだ。グールドがその風潮を壊すまでは。

「バッハをピアノで弾くなんて失礼!」というわけだ。馬鹿馬鹿しさを通り越してほとんど有害である。「専門家」の言うことはまともに受け止めてはいけないという警告であろう。ただ、まともな専門家もいるからなかなか見極めは難しい。

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