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果たして人間に自由意志はあるのか?という問いがある。
西洋の人間観のバックグラウンドにはキリスト教やら科学的理性やら個人主義がある。従って「自由な魂であり理性的・個人的存在である人間に自由意志がないとおかしい」という発想が自然である(ちなみにニーチェは自由意志を否定した)。そんなバックグラウンドのない東洋では「個人?自由意志?別に突き詰めんでもええんちゃう?」あたりで腹落ちできる。西洋って意外と面倒臭いのだ。
実際「自由意志」なんて怪しい概念だと思う。
「さあて、ここで何となく鼻をつまんでみるか」と思っておもむろに手を上げて鼻をつまめばそれは確かに自由意志と言えそうだ。しかし痒いところを思わず掻いてしまうのを意識的に止めるのはものすごく大変なことだし、水を飲むとか食べ物を食べるときには自由意志は働いていない気がする。最近の研究で「『水を飲むぞ』という意志」を示す脳波は、実際には水を飲んだ後に発生している。つまり意志なんてのは行為の後付けでしかない。ニーチェの言った通りである。
何の話をしているのかというと、ふと「ピアノを演奏するのは自由意志か?」という問いが浮かんだのである。
繰り返し書いている通り「ピアノを演奏する」とは「ピアノをひたすら毎日、繰り返し練習する」ことに他ならない。これはもう強い意志が必要である。意志がないとやってられんよマジで。勝手に体が動いて練習してほしいくらいである。
しかし指の動きは意志とは関係がない。ここは親指でミを弾いて、次に中指でシを弾いて、これを意識的にやってるようじゃ弾けない。また、いくら頭で「意志」しても思った通りにはなかなか動いてくれないのが運指である。ひたすら繰り返し、指が動いてくれるまで反復練習しないとダメ。
指が意志とは無関係に動くまで仕上げていく。指が順調に動いているところにうっかり変な意識(今日の夕食何にしよう?)が入ってしまうと指が止まってしまう。だから指が機械的に動くまで頑張って練習する。
意志を働かせるのは、一通り指が機械的に動くようになってからである。指が勝手に動くようになって初めて「ここはクレッシェンドしたいな」とか「ここはルバートで歌おう」とか意志を伝えることができる。
無意識で動く指を手に入れないと、意志を持って弾くことができない。楽器とは面白いものである。
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