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キース・ジャレットを馬鹿にするジャズリスナーは音楽のキャパが狭い。と確信している。馬鹿にするのが問題であって、「好きも嫌いもなにも、あの唸り声のおかげで聴く気にならない」とか「よく分からない。私の求めるジャズじゃない」という感想なら問題ない。理解できなければ保留するか黙っていればいいのになぜ馬鹿にするのか。自分の聞きたい曲しか耳に入らない人たちである。想定を超えたコンテンツを受け入れるキャパシティがなく、しかもそれを正当化する人たちである。ジャズ観が硬直化しているのだ。
もはやキースもレジェンドになってしまったので、今さら彼を馬鹿にする人はいないが、昔は本当にいたのだ。昔のジャズ評、ジャズエッセイを読めば(そんなものを読む人がいれば、だが)キースを馬鹿にする記述に出くわすことはある。「こいつ分かってないな」と思って間違いない。昭和の「大物」ジャズ評論家だって例外じゃない。評論家なんてそんなもんだ、という話である。
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村上春樹の音楽の趣味はまさに「偏狭」である。
ジャズのエッセイでもマイナーな演奏家を積極的に取り上げていたはずだ。参考にしていろいろ曲を聴いてみたら「悪くはないけどいうほどか?」というものばかり。どちらかというとジャズ衒学的エッセイである。音楽自体の質は二の次という印象だ。
超一流の演奏家を題材にして、文章は書きにくいのだろう。誤りや浅い考察を書くとガチ勢から厳しい突っ込みが入りそうだ。ちょっと他の人が目をつけないような演奏家の方が好きに書ける。
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皆が振り返るような美人よりも、僕のための特別な何かを備えてるようなそんな女性に惹かれる、といった記述がよく彼の小説に出てくる。
音楽を聞く態度も同じなのだろう。いわゆる超一流の演奏家や名曲ではなく、あえて有名ではない曲を熱心に聴き込んで、そこから何かを見出そうとする。その結果、しばしばそこには実際には存在しないものを、作家のたくましい想像力のフィルタを通して感じ取ってしまう。
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それはまた、コレクター的な鑑賞法でもあるかもしれない。評価の定まった世界的名盤だけでは面白くない。多様な”ハズレ”レコードを楽しみ、うんちくを語る。いわゆる「通」である。B級作品を一生懸命聴き込んで、そこから「僕のために用意された何か」を見出す。なかなか楽しそうではないか。
「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」に鍵として出てくるリストの「郷愁(ル・マル・デュ・ペイ)」も、まさしく村上春樹好みのB級作品である。
まず、普通にピアノを習っていて課題に与えられる曲ではないはずだ。今のピアノの学習事情に詳しいわけではないが、そもそも楽譜が入手しにくい。技術的に見せ場のある派手さもなく、リスト的なポップな甘さもない。女子高生が取り組む曲としては違和感が強い。ペトラルカのソネット 104番(第2年 イタリア)の方が小説に合っている。
「郷愁」(第1年 スイス)は地味過ぎる。小説での扱いも村上春樹らしい。”つくる”以外の男性の登場人物はこの曲を覚えていない。主人公のみに刺さった地味な曲、というわけだ。
バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパンがS級とすればリストは作曲家としてB級である。リストの有名曲は少なくはないもののほぼ通俗的な曲である。深い精神性を感じさせるリストの曲や演奏を僕は知らない。ショパンと聴き比べると歴然である。才能とは恐ろしいものだ。(割と人気のある「タランテラ」を僕はくだらない曲と思う。リストの中では確かにマシだけれど(特に反田恭平氏の演奏は出色ではあるけれど))
そしてラザール・ベルマン。不勉強ながら僕は知らなかった。ショパンを弾かなかったせいだろう。リストをさほど好まない僕とは出会いがなかった。もちろん僕がラザール・ベルマンを知らなかったからといって彼がA級でないとは言えないのは当然である。
それにしても、リストの「郷愁」か・・・
この地味でもったいぶった退屈な曲から、村上春樹はどんな「特別なもの」を感じたのか。想像を膨らませながら聞くのも面白い。
しかしながら、ファンタジーを援用して音楽を楽しむのは、映画のシーンを思い浮かべながらそのサントラを楽しむのと同じ。「あのシーンよかったよね」の「あれ」「それ」の個別体験であり、他人とは表面的にしか共有できない。Twitterで飛び交う個人的かつ共有可能な「わかりみ」である。ちょっと待て。それの何が悪い。人の人生を支えているのは、むしろ他人と共有できるささやかな個別的体験じゃないのか?ごもっともである。
果たして音楽とは何かの前提を事前に共有しなければ分かりあえないような個別的な体験なのだろうか?誰かのため「だけ」のもの、何か他の前提や特定の文脈を知って初めて理解できるような、そんな何かが、音楽に入る余地があるのだろうか? ※後記あり
曲自体を純粋に聴き込むと、人種・時代を超えて共有できる「美」にたどり着けることがある。有史以前から、人間は音に美を感じてきたのだ。神秘的ではないか。そんな「人類の深層に横たわる美」を感じるのが音楽の楽しみではないか。村上春樹的な「『僕にとっての何か特別なもの』を能動的に探す」聴き方では、そこにはたどり着けないんじゃないかと僕は思う。美とは圧倒的なものであって、期待した通りに現れるものでも、想像力を援用して構築するものでも、薄っぺらい「わかりみ」で交換すべき個別的体験でもないのだ。
※後記
例えば反戦ソングなど、何かのイデオロギーに頼り訴えかける曲があるとして、その政治的なメッセージと曲の美しさ、かっこよさは完全にパラレルだと僕は思う。政治的なメッセージがあるがゆえに美しいはずはない。その逆も。