クラシック音楽の呪い

楽譜の通りにノーミスで弾くためには、「ものすごくゆっくり!正確に!毎日!」練習する才能が必要だ。

ところが、この才能と芸術的表現の才能は別物である。そしてこれこそがクラシック演奏にあまねくかけられた呪いである。

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クラシック演奏家には、まずは正確性が求められる。テンポ、強弱、長さ(すなわちアーティキュレーション)ができるだけ楽譜通りで、できるだけノーミスであること。

当然である。しょっちゅうミスタッチしている演奏を聴いて感動することはあまりないだろう。単純にミスは減点でしかない。アーティキュレーションは解釈の余地があるだろうが。

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芸術的表現?正確にすら弾けない癖に何を言っているのか?pgr

正確に弾けることが大前提であって、そこから初めて解釈や表現が可能になる。さもなければ「解釈」や「表現」と「技術のブレ」をどうやって区別するのか。再現だって出来ないじゃないか。

理論的にはその通りである。正論である。

でも本当にそうか?

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曲の美しさを引き出すために、徹頭徹尾、最初から最後まで楽譜に正確である必要があるのだろうか。

クラシックにも即興演奏がある。バッハ、モーツァルトを始め、多くの偉大な作曲家は素晴らしい即興演奏家だったということだ。つまり楽譜無しで、その場限りの音楽がありえた。

即興が許されるならば、楽譜からの逸脱が許される。そして即興演奏においてはミスは存在しないのである。

ジャズを引き合いに出すまでもない。音楽と即興性は切り離せないのではないか。むしろ楽譜に一つ一つ記録された記号、それを聖典とし、厳密な正確さを前提として、繰り返し再現するクラシック演奏こそが、特殊なのではないか。

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即興演奏の名手ショパンや、美しいメロディーが常に湧き出ていたモーツァルトが、楽譜に落とした自曲を正確に再現することに固執していたとは思えない。しかし今クラシックを弾く人はあくまでショパンやモーツァルトの楽譜の再現にこだわっている。なんだか変な話に思えるのは僕だけだろうか。

幸い、大人になって遊び弾きを楽しむ分には誰からも文句は言われない。リズムを変えるのもよし。メロディフェイクを試すのもよし。それが楽しければ練習のモチベーションにもなる。

クラシック界隈の方にも、ぜひ楽譜にとらわれずに自由な解釈や演奏をしてもらいたいと思うんだけど、そう簡単にはいかないんだろうね。クラシック曲の完成度が高過ぎて、劣化させずにアレンジするのが大変だろう、と僕にも想像はつく。にもかかわらず、ぜひどなたかに頑張って今の「クラシック演奏こうあるべき」というパラダイムをぶち壊して頂きたいものだ。

だって、Spotifyで過去の名演が聴き放題。クラシック演奏はもはややり尽くされ、解釈し尽くされている。今の時代に数百年前の楽譜を正確に再現する努力にどんな意味があるのか。本気で疑問に思ってしまうのだ。

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