「音楽について書くこと」について

今でも音楽系の「評論家」は存在しているのか?と思ってナニゲに調べてみたら、今でもいらっしゃるんですね。これは不勉強だった。

今は「評論家」に頼らずとも(地道に頑張って探せば)ブログや口コミに参考になる情報がある。今どきの音楽情報ならTwitterやTikTokで手に入るだろう。「評論家」の出る幕はないと思いこんでいた。人にはそれぞれ思い込みがある。

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何度か書いているが僕は「評論家」という存在に懐疑的である。「あるアートを愛してやまないのに自分ではクリエイトできない人たちが、どうしてもそれに関わりたくて、文章で無理やり絡んでいる」だけの人たちである。我ながら辛辣な意見だと思う。申し訳ない。

ジャズに取り組んだ時、昔の名盤を確認しようとして、図書館で昭和のジャズ評論家の本を何冊か借りた。

中学生時代に熱心に読んだ評論家の皆さんである。子供だった僕は素直に感心して読んだものだが、それから4半世紀が経過し、当方も十分なおっさんとなり、下手くそながらもジャズに取り組んでから読んでみると「やれやれ。ジャズ理論もろくに知らず、アドリブもろくにしたことがないくせに、印象だけでよくここまで書いたもんだな」と思ってしまう。

念の為。

「ジャズ理論を勉強し、アドリブを下手くそながら経験した僕は語ってもいいのだ!」という単純な話でもない。

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例えば、ブラームスの間奏曲 Op.117 No.1について書いてみようか。

いい曲である。グールドの演奏は何度も聴いた。この曲は、悶々とした学生時代の、一人暮らしの切ない夕暮れを想起させる。思い入れのある演奏だ。今聴いても様々なイメージが目に浮かぶ。いろいろと文章がかけそうだ。

自分で演奏してみよう。

あれ?ベースラインはこんな微妙に変えてるの?聴いてて気が付かなかったんだけど?

2つ目のマイナーセクション、こんな繊細な展開だったのか。完全に聴き飛ばしていた。ってか、まったく理解していなかったというか。

何度もそれなりに集中して聴いたと思ったけど、漠然と雰囲気に浸っていただけで(別に悪いことではないが)、一つ一つの音も、ベースラインも、ハーモニーもほとんど聞き分けてなかったのか・・・

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自分で演奏してもなかなか全体像が把握できない。

何度も演奏して、指に覚え込ませて、ようやく分かる。技術的にはそこまで難しくない曲だが、僕のピアノの技量では仕上げるのに数ヶ月はかかる。ある程度仕上がっても、音の意味をすべて把握できるわけではないし、他人の演奏を聴いてすべてを聞き取れるわけではない。ミスタッチがあったとして指摘できる自信はない。

ってか、人の演奏をどんなに集中して聴いても必ず意識が途切れる。ある瞬間、あるいは数秒、数十秒の意識の空白が生じている。

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何十回も聴いた好きな曲だ、と思っていた。でも実際には雑に聴いていただけじゃないか。音の意味を理解してもいなかった。そんな僕に、この曲を語る権利があるのか。

まあ、少なくとも権利はあるけどね。

自由に発言してよい。逮捕されるわけではない。

カラヤンの1984年の来日コンサート、ショスタコーヴィチの交響曲第6番の演奏で、第2楽章の67小節目にチェロの音が半拍遅れた!と指摘できる人だけが音楽を語る資格がある、わけではない。

でも、恥ずかしいよね。

この曲の一つ一つの音に意味があるはずだ。ブラームスは一つ一つ考えて曲を作りこんだはずだ。

ショパンやモーツァルトとは違って、ブラームスの曲には作り込まれた感がある。

その音を聞き分けることもできず、意味を十分に把握することもできないのに、印象だけで語る。なんだか恥ずかしい。

確かに、素人の印象が正鵠を射ることはある。若い頃感じた印象が、今でも間違っていなかった、と思うことはある。

ただ、ベースラインや、ハーモニーすら理解できていないのに音楽を語る。そこに罪悪感がなければ、恥ずかしい営みだよね。音楽についてつらつら文章を書いてると、しばしば恥ずかしくなるのである。

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